「雑木林の美しさ」松田高志著

2018.12.08

朝目覚めた時には、未だ真っ暗なこの頃です。
細く細くなったお月さまと共に金星が望めますと、「あぁ、雲水さんたちは今も坐って(坐禅して)修行に励まれているのだろうなぁ…お釈迦様はあの金星をご覧になり、悟られたのだ」などと感慨深く、しばし佇んでおります。

お釈迦様は難行苦行の後、「これでは悟りを得られない」と、静かに菩提樹の下、お坐りになられます。7日間坐り続けられ、12月8日朝、明星(金星)をご覧になり、お悟りになられたとか…。
この史実にあやかり、臨済宗の修行道場では、12月1日から、臘八大摂心(ろうはつおおぜっしん)といって、一年で最も厳しい坐禅行に入ります。横になって眠る事も許されない、ひたすら、坐禅に徹する期間なのです。
そして本日8日、その厳しい修行が終わり、雲水さん達もほっと一息、、、とはいえ、修行は日々淡々と続くわけですが…。

前置きが長くなりすぎましたが(すみません、今回は臘八大摂心のお話ではありません…)、朝目覚めて動き出してから少し経ちますと、朝靄の中、太陽が顔をのぞかせ、世界に光がもたらされます。すると靄と光に混じり目に入ってくる山の彩りの美しさに、「あぁ、やはり私はこの季節が一番好きかもしれない」と毎朝思うのです。大げさではなく、毎朝です。

花々の美しさも良いのですが、遠く見る山の風景というのは格別なものがあります。
この山の彩り美しい季節が来ると、決まって思い出す文章があります。
私の母校のゼミの恩師・松田高志先生の著書『いのちのシャワー』にあります、「雑木林の美しさ」です。

長くなりますが、皆様にもご紹介したい文章ですので…。

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一年ほど前に、新大阪の近くのマンション街から宝塚の山の中に引っ越してきましたが、交通は大変不便になったものの、家の周囲は、幸いまだ雑木林が残っていて、四季の変化を楽しみながら過ごしています。

今から十年以上も前ですが、南ドイツにあるチュービンゲンという田舎町の近くの小さな村に二年ほど住んだことがあります。そこは、畑かりんご林か森しかないようなところで、生まれて初めて自然の中で季節と共に暮らしたような気がしました。その時の印象が強かったからか、日本に帰って来ても、そういうものをいつも求めていたようで、結局こういう山の中に落ち着くことになりました。今は、時間があれば犬をお供に山や林を歩き回っています。

とはいえ、ここもやはりあのドイツののんびりとした自然にはかないませんが、しかし一つだけこちらの方がいいと思うことがあります。それは、雑木林の美しさです。ドイツ
は、緯度も高く、かつては氷河におおわれたこともあるようで、木や草の種類も少なく、整然とした感じですが、どこか単調な印象を受けます。それに対し、この辺の山や林は、春になると濃淡さまざまの緑が映え、又紅葉の季節になれば、いろんな紅葉とそうでないものがなお一層複雑に溶けあい、実に微妙な調和が見られます。この淡く、暖かい色合いは、おそらく木や草の種類が多いことや湿潤な気候によると思いますが、ともかく日本独特のものではないでしょうか。日本人だからかもしれませんが、この雑木林の美しさだけは、大いに自慢出来そうです。日本に帰ってしばらくの間、民芸織物の同じ感じの淡い色合いをいつ迄も見飽きなかったのを覚えています。

この雑木林を見ていると、それこそ雑然としていて何ら秩序らしきものがないのに、どうしてこのように見飽きることのない、一番心がほっとするような美しい調和が生まれるのか不思議になってきます。それぞれ色も形も大きさも千差万別の木や草がただ一緒に生えているだけで、こんなに見事なハーモニーをかもし出すとは……。これはもちろん考えてわかるものではなく、不思議ないのちの事実として受けとるしかありませんが、ただ考えられることは、どの木もいのちのもよおす方向に一生懸命生きているからということです。それは、もちろん充分な説明になりませんが、しかし大事な要素であるかもしれません。

ところで、我々人間も、規格化されず、又規律や命令や“団結”というものが余りないところでは、全体としてすっきりしているとか、きちんとしているという訳にはいきませんが、しかしでこぼこしていてもそれぞれ自分を力一杯生かし、又互いに生かし合うならば、何気ないようでいて、どこか暖かで心なごむ美しい調和がみられるのではないでしょうか。平和な家庭が、一番よくそれを物語っていると思いますが、平和な町、平和な世界もきっとそうであるに違いありません。実際、平和とは、安心してこのように“雑然”としておれることではないかという気がします。平和の美しさも、まさにここから来ているのではないでしょうか。

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大学生時分、雑木林の美しさから、平和とは?を導き出す師匠の感性にいたく感銘を受け、今も受け続けているわけですが、禅宗のお坊さんたちの言葉、残っている禅語には、自然そのままの風景を表しているものが多く、賢者は今も昔も皆、自然から答え(真理)を導き出すものなのだなぁ…と思うのでした。

安心して雑然としておれる世界。自分を生きる、自分本来の姿をみつける、自分らしく生きる、そしてもちろん、相手のそれも受け入れる。
平和な世界の実現には、仏教や禅の智慧、教えが助けになる事は明白で、お寺での可能性を日々考えております。

昨年、第一回目を開催し、現在も続けている“おやこ論語塾”や、来年から始めようと思っている、宮本しばにさんのゼミも、その一環といえます。
住職や職員だけでは、できる事にも限界がありますが、集まってくる皆様のご縁を大切に、何らかの形でお力拝借できればなと思っております。
何を宜しくお願いするのか漠然としておりますが、何はともあれ、皆様どうぞ今後とも東慶寺をよろしくお願い申し上げます。