お寺の栗きんとん

2018.10.23

東慶寺の庫裏の庭の崖に、大きな栗の木が生えています。毎年、それはたくさんの実をみのらせ、いがぐりごとぼてっ、ぼてっと音をたてて落ちてくるのです。

庭仕事の人が拾ってくれたり、庫裏の人間や息子が遊びながら拾ったりしますが、まずそれも時間を要し、さらに小さな山栗ですので、剥くのにも大変な手間がかかります。
よって、昼のまかないではなかなか使いにくく、栗ご飯とあと一品くらい何か作るくらいです。たくさん採れる栗をどうしようか・・・と考え、今年は栗きんとんを作ってみる事にしました。

ちょうど毎年十五夜に、全国的にも有名な中津川の“すや”の栗きんとんを送ってくださる檀家さんがいらっしゃるので、それを見て「はて、うちの栗は滋味深いこっくりしたお味だから、素材そのものの味が重要な栗きんとんを作ればとてもおいしいのでは?!」と思ったわけです。
ちょうど、論語塾や、和尚さん方の勉強会もひかえておりましたので、その時にお出しできればとも思いました。

既製の菓子は常日頃より甘すぎると思っているので、甘さ控えめで作ってみますと、「これは菓子ではなく、栗そのものだ」とか、「菓子はもっと甘くなくてはならない」といった評をいただきました。
菓子の甘さとは、何を基準にしていると思われますか?

実は茶の湯の世界においては、利休さんの時代には干し柿などが菓子として使われていたこともあり、干し柿の甘さを基準とするのです。確かにあの甘さを思いますと、少々甘みが足りないような…。
庫裏のお手伝いさんなどは、必死で栗をむいてくれましたし、一緒に裏ごししたりと、手伝ってくれたせいか、「これで十分美味しいし、私はこのまんまが好きです」と言います。

人それぞれである味覚の世界ですが、そういったときに基準となるものさしがあるというのはなかなか面白く、「菓子になりきれない栗きんとん」や、「菓子になりきれない甘さの栗きんとん」という事に関して、いろいろと思いを巡らすのでした。

結果としましては、やはりここは砂糖への罪悪感などは捨て切って、菓子は菓子として作りましょうと思ったのでした。