味噌仕込み

2022.03.09

ほぼほったらかしとなってしまっておりましたこのブログ。
今年こそはと思いながらはや3月になってしまいました。

大豆を24時間水にひたします

先日は味噌を大豆8キロ分仕込みました。
こういうことを書くと、「お寺の奥さんだし、なんでも手作り、いろいろできるのかな」と思われるかもしれませんが、正直に申しますと、こういった“手作り”の類はすべて大の苦手項目であります。好きでもありません。

私の場合、たまたま寺に嫁ぎ、職員がいるため、まかないを毎日作る事になり、自身も食いしん坊なため、少しでも美味しい味噌をと思った結果、手作りが一番という事になりました。
しかも、以前少し師事した懐石料理教室の先生宅で教えていただきつつ仕込むことができるので(なんとうどんを捏ねる機械で大豆をつぶすのです!)、有難い事になんとか毎年続けられております。

円相?!

梅干しなども、買ったものより作った方がおいしいのと、和尚がそれでなくては食べないのと、なにせ東慶寺にはご存知の通り梅の木がたくさん植えられていますので、立派な実をつけてくれるのに何もしないのはもったいない・・・ということで、毎年つけております。

正直に申しますと、「確かに美味しいし、半分仕事?!」だからしているというのが正しいのです。

ふと、昔感銘を受けたよしもとばななさんの文章を思い出しました。ちょっと長いですが・・・。

 

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最近の風潮として、なんでもかんでもていねいにやるというのがある。もはや、そうしなくてはいけないと思っている人まで出てきたのにびっくりした。最近の若い人のまじめさは、胸うたれると同時に少しだけ心配なところもある。
そうじも酢とぞうきんを使ってていねいにやる。
米も優しくとぐ。ほうれん草も泥をていねいにとって、優しくゆがく。ぞうきんからエプロンからなにからみんな手作りで、とにかく細かい。

器もいつも材質にそった方法で手入れし、鍋もぴかぴかだ。
この思想(といっても差し支えないと思う)を若い人が学ぶのは、すばらしいことだと思う。
その反面、私はこれはこれで、まじめにやりすぎると時代の病なのかも、と思う。
そうしている人が、この急ぎすぎている時代の中であまりにも輝いて見えるから当然なのだが、誰も彼もがそういうふうにするのはしんどいよな、と思う。
無形のものに情熱を注ぐと、それは確かに返ってくる。家事をするならどうせなら楽しく、と思った進んだ主婦たちが、楽しくなるようにと考えたあれこれのことは、すばらしい芸術だが、そうしているひとは、しんから好きでそうしているのだし、生活のスタイルからすでにもうそう組み立てられている。

問題は、みなそこに行かなくちゃと思い込んで、若いまじめな人ががんばりすぎてないかどうかだけだろうな。
今は過渡期なので、目が回るほど忙しい人がわざわざ徹夜で手作りのぞうきんを縫ったり、OLで少しひまを惜しんで読書したいのに、土鍋の前に立ってごはんがたけるのを待っていたりする。

「昔に戻ると言うことは、女性として単に昔のように不自由になることだ」ということがすっぽり抜けている。
その時間がほんとうに好きなのなら、したほうがいいよ、とは思う。
他にすることがたくさんある人がいて、その人の家はぐちゃぐちゃでごはんを台所で一回も作ったことない、というのでも、それはそれで人生だと思う。
それをふまえた上で、好きな物で家を満たすのはとても、とても大切なことだ。
きっといろいろやっていく上で、みんながそれぞれのスタイルを見つけていく時代が来ているのだろう。

昔に比べて選べる時代だというだけでもすてきなことだし、いろいろなライフスタイルの人がいて、あまりにも違う世界の人は交流しないような、細分化の時代なのかもしれない。
こういうことを考えていると、いろいろときづくことがある。

例えば私は忙しい。そしてしたいことがたくさんある。
動物がたくさんいるので、洗剤などの毒性にはかなり気を使っているが、それは動物のためで、多分地球の為ではないと思う。
洗剤は洗濯機にお願いし、アイロンはかけない。忙しいから。したいことがあるから。
アイロンが必要な服を着なくてはいけない機会が少ないから。そういうときにはクリーニング屋さんに頼む。

普通の歯磨き粉は味が濃すぎるので、ぶくぶく泡がたたない自然食品店で買ったのを使っている。でも、それも多分自分のためであって、おおきなことは考えてない。
ごはんは炊飯器にお願いする。水加減がちゃんとしていればかなりおいしく炊けるし、その間に仕事だってできる。
野菜は宅配で取っているが、やはりおいしいのと、買いに行くのが面倒なのが理由だ。すごく寒いときは野菜をお湯で洗っちゃう。かわいそうだとか命とかいう観点で言えば、食べちゃう方がよっぽどかわいそうだし、お湯で洗って即ゆでれば、あまり違いはないし、わかるほどせんさいな料理を作らない。
なんでもレンジでチンするけれど、チンしてまずくなるものは、しない。
ライフスタイルに合わせて、取捨選択は行われている。
私が編集者だったら、OLだったら、主婦だったら、子供がいなかったら、それに合わせて内容はどんどん変わるだろう。
大事なのは、それぞれが、地球とか環境とかではなく、自分自身を大事にしているかどうかではないかな、と思う。
理由のない、必然のない努力は空しい。
理由のない、必然のないおしゃれ、お掃除は空しい。
たとえば、プロのモデルは日常ではほとんどお化粧していないし、おしゃれもしていない。美容と姿勢にはものすごく気をつけているけれど。
ものすごいお化粧やおしゃれをして歩いているのは、素人さんだけだ。
ほんものの料理人は、どこのスーパーで買ったものでも、おいしいものを作る。でも鮮度だけはよく見ている。
ほんものの作家は、パソコン一台かペンと紙があれば、小説を書く。
そんなことではないかなぁ、と思う。

※吉本ばなな著「ごはんのことばかり100話とちょっと」抜粋

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甕に入れてやぐらへ

「大事なのは、それぞれが、地球とか環境とかではなく、自分自身を大事にしているかどうかではないかな、と思う。」

ここですここ。
今日申し上げたかったのは、「頑張りすぎなくてよいのです」「自分を大切にして欲しい」ということでした。
お寺のInstagramなどで、味噌つくりや梅干しつくりの事を載せると、「ていねいなくらし」的に思われそうですが、やっていないことはやっていないし、選択しています。

もちろん、最低限やらねばならぬことはあるでしょう。ですが、それを超えてする事に関しては、
皆様も是非、他人と比較して「こうあらねばならぬ」ではなく、「したいからしている」と、軽やかに人生をお過ごしいただきたいなと願っております。